あけましておめでとうございます。
皆様はお正月をどのようにお過ごしでしたでしょうか。



金沢は暮から降り出した雪が元旦には積もってしまいましたから、私はご近所の方と新年の挨拶もそこそこに
みんなで除雪作業をしました。 風も強く横殴りの雪は湿度を含み、よけてもすぐにまた積もっていました。


雪よけした道を自転車を押しながら郵便配達しているのはアルバイト学生さんのようでした。
一軒一軒表札を確かめながら年賀状の束をポストにいれている学生さんは雪をかぶり
手は雪でかちかちになっているようでした。
「お疲れ様」と声をかけると、ペコリと頭を下げ私の手に年賀状を渡してくれました。




家に入って分厚い年賀状を一枚一枚みましたが、卒園した子どものたちの近況を伺うことができました。

成人した子どもたちからは
 「これから○○は就活です」
「成人式です」
 「思春期真っただ中です」
 「受験です」
 「志望校合格が今年のモットー」と言うコメントが添えてありました。



転勤族の家庭からは
「今年も単身赴任です」
「春に10年ぶりに家族が合流です」

「やっと新築しました」と家族の生活の様子が書かれていました。


小学生の子どもたちは
「サッカー少年です」
「トランポリンに熱中です」
「背が伸びバレー頑張ってます」
「ピアノ頑張ります」
「陸上部です」と成長や夢を知らせてくれました。



年賀状といえば昔はほとんど手書きでしたから、毎年頂く年賀状の字を見ると誰からのかすぐにわかりました。
しかし、今はほとんどがパソコンですから字や住所を覚えたりすることができなくなってきました。
文明の利器を使用しながらいろんなものを失っているように思いました。



1月3日の朝日新聞「天声人語」に次のように書いてありました。



 日本の子どもたちは冬休みのさなかだろうが、古い時代の中国には「冬学」なるものがあったそうだ。

  農村の子らを農閑期に学ばせるために、冬にだけ開かれる
寺子屋のようなものだったらしい。

▼ かの国では、読書にふさわしい季節も冬とされていた。
  本を読むのに適した「三余」という余暇があって、雨の日と夜、それに冬のことを言った。
  それなら冬の夜は、またとない好機ということになろうか。


▼ 元旦の小紙の別刷り特集が、今年は「国民読書年」だと伝えていた。
   読むことを通じて豊かな言語力を育むのが目的という。
  読書は受け身に見えて、実は脳をフル回転させる営みであるらしい。

▼ 昨今、言葉で感情を表せずに「キレる」子が目立っている。
  背景に言語力の低下があるとされる。一方頼もしい傾向もある。
  図書館を利用する小学生は、07年に1人あたり約36冊の本を借りていた。
  これは過去最多という。

▼ 巣ごもり派も多かった年末年始、「読み納め」や「読み初め」を楽しまれた方もおられよう。
  人との出会いはすてきだが、書物との邂逅も捨てがたい。
  一生ものの一冊に会える読書年であればいい。





私もお正月休暇のうちに今まで読んでいた本を「読み納め」
新たな本を「読み初め」たいと思っていましたから、「天声人語」の一生ものの一冊に
私は出会ったかなと考えさせられました。


日ごろ時間に追われて生活をしている私は、年賀状を書きながら(実際は書けませんでしたが)珍しくテレビで映画をみました。
2日間続けて「ラストサムライ」「武士の一文」と言う時代物を観たのでしたが
古い人間ですから血に通うものがあり面白く最後まで見ることが出来ました。


映画というと本で読んだものを映像化したものをみてがっかりすることがあります。
私がイメージしていた主人公と像が違っていることで抵抗感があり、本のほうがよかったと思うからです。

「本を読むっていったいなぜ必要なんだろう」と考えさせられます。

よく言われるのは「昔は本なんか読まなかったけど、それでもみんな立派に育ってきたじゃないか」ということでしたが、
最近は「もう本の時代ではない大切なのは電子メディアである」と活字を読まなくなってきた若者たちは言います。





年をとるとすぐに昔と比較してしまい「また〜」と言われることを覚悟の上で
今と昔を比べると違うことをたくさん見つけることができます。


かつては生きていくために役立つ生活文化に支えられていたのに、今はほとんどが消え、
受け取ろうにも受け取るものがなくなったように感じます。
以前は子どもたちのまわりにたくさんの大人たちがおり、その大人が昔話や思い出話だけでなく
生活に必要な様々な技術や、動植物や天候などの知識を子どもたちに伝えてくれました。

子どもたちがいろんな大人たちに接する機会そのものがなくなってしまって、人間に育てられているというよりも
映像やメディアによって育てられているといっても過言ではないと思います。



たとえ、伝えるべきものをもった大人に接する機会があっても、いまの子どもたちはテレビ、ゲーム
パソコン、携帯電話などが遊び相手になってしまっていますから、受け取る力もなくなっているかもしれません。

昔のように楽しみを大人に求め、お話を聞かせてもらう、遊んでもらう、遊び方を教えてもらうなど
大人を手本としてもとめていた子どもから、大人は遊びのスポンサーであって子どもたちは大人達が分からない
ゲームやアニメの世界で遊んでいるように感ずるのは古い人間の考えることでしょうか。



私は幼稚園で子どもに接する切り札として流行の話題に関心を持とうとしましたが、流行のゲームやアニメは
速いスピードで変化しますから、もう子どもたちについていけず楽しみが共有できなくなってきています。


現代の社会は途方もなく複雑化していますから、だれがどこで何をしているのかが非常に分かりにくくなっています。

仕事をしていても自分のしていることが本当
に必要とされているのかと不安になることがあります。
進歩ばかりに目を向けていると、受け継いだものを変えることなく
しっかり伝え
ていくことの大切さを忘れてしまうことになってしまいそうです。

その心配は教育現場の中で起こっているように思います。



子どもたちに「何のために勉強するのか」と聞かれたときに皆さんは子どもに何と答えるでしょうか。
今の多くの大人の答えは「誰のためでもなく、あなた自身のため」と答えると思いますが
はたして子どもたちはそれで納得して大人の言葉に従うでしょうか。




以前、幼稚園に遊びに来ていた中学生が
 「勉強嫌いや。自分のために勉強せいと親がうるさいけど、自分のためなら嫌な勉強したくない」と言っていたのを思い出します。



教育は本来、子ども一人ひとりのためにあると同時に、次の世代に伝えなくてはならないことを受けわたす場でもあったはずです。
しかし、いまは教育が「伝える場」「手渡す場」であることより、より幸せな人生を獲得することばかりにおもきが置かれるようになりました。

子どもの今の育ちの中に喜び見つけることより、他の子より少しでも早く何かができるように期待するあまりに
SOSしている子どもの声が聞こえなくなってきているような不安を感じます。




いよいよ2010年がスタートしました。

今年度の最後の学期は1月行く、2月逃げる、3月去るといわれるように駆け足で過ぎていくように思います。
昔のように身体じゅうを使って遊び、周りの人たちとたっぷり交流できる環境を作り、子どもたちが神さまの愛に包まれ
幸せな幼稚園生活ができるように祈っていきたいと思います。


そして、春には卒園、進級とそれぞれの喜びの時を迎えることができるようにと願っています。

今年も幼稚園の教育にご理解とご協力を賜りますようにお願い申し上げます。

                                                  2010年1月  近藤瑠美子




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